~ 本場のティータイムを、岡崎で ~
イベント開催報告
◆2024.9.24 Keswick読書会
 〈好きな本を紹介しあう形式〉
第2回読書会を開催しました。今回も特にテーマは定めず、参加者さんが好きな本、いま他の人に特におすすめしたい本を選び、紹介しあいました。
【紹介された本】
◆ 『人体図鑑』など数冊
まずは初参加のTさんから、『人体図鑑』など数冊をご紹介いただきました。
「この地球がどうなっているか知りたいと思いました。各国のどこが危ないのかが紹介されていて、30年ほど前の本ですが、この時代になんとかしなければ手遅れになるよという指摘でした。いまはもう、手遅れになってしまっていますね。このままいくと地球は滅びる、宇宙へ行くのも難しい、こうしたことは聖書にも書かれています。便利な社会にもその副作用があります。親子の情愛よりも親子の殺し合いが始まっている。宇宙も人間も自然も創造者が作ったものです」
春名「現代科学の解釈では、人体はたった一つの細胞から増殖し、様々な臓器や機能が自然に作られるということですが、それよりも誰かが意思を持って人体を創ったと考えるほうがしっくりきますね」
Tさん「元素の周期表なども、これが自然にできたというより、誰かが創ったと考えるほうがわかりやすいです」
春名「人体の免疫機能なんかも、ものすごく複雑かつ精巧な仕組みで驚かされます。僕は西洋医学はあまり信用していなくて、人体に自然に備わっている素晴らしい仕組みに比べれば、人間の作り出した医学など稚拙なものでしかありません。この人体が単純に進化で出来上がったとはとても思えないところがあります」
初参加のNさん:「水の循環の仕組みもすごいですね。雨が降って植物を育て、川から海へ流れて蒸発してまた雨になる。人間が何もしなくても見事なサイクルが出来上がっていて、公害もありません」
Tさん「こちらの本には、世界のできた順番が書かれています。これによると、人間が最後に作られたんですね」
Nさん「最近の科学者も、この順番は素晴らしいと言ってますね」
春名「(本を見せてもらいながら)ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵が載っていますね。他にも知っている絵がたくさん出てきて、わかりやすく書かれています。僕は絵を見るのが好きなんですが、西洋絵画を見ていると必ずキリスト教のモチーフが出てくるので、キリスト教の知識があれば絵を見るのも楽しくなります」
あでりー「聖書は世界でいちばん売れている本で、いろんなものの基本になりますから」
春名「本を読んだり映画を見るのにも、キリスト教を知っていると理解が深くなります」
◆ 『聖書』より、ノアの方舟のくだり
初参加のNさんは、聖書の中のノアの方舟のくだりをご紹介いただき、詳しくご説明をいただきました。洪水前の人間は長生きで九百何十歳まで生きた人もいること、洪水前は地球が水蒸気の層で覆われていて、洪水のあとは太陽の光が直接届くようになり、人間は短命になったこと、霊者と人間との間に生まれた「ネフィリム」が増えたことに神が怒り、地上から人間を滅ぼすために洪水を起こしたことなどをお聞きしました。ノアの方舟は浮かびさえすればいいので、航行するための形や装備は備えていないこと、大きさはクイーンエリザベス2世号の半分ほどで、タイタニック号と同じくらいだったこと、ギリシャ神話や叙事詩の中にも洪水伝説に関する物語が含まれていること、洪水前の危機的な状況と世界の現状が似ていることなどを、興味深くお聞きしました。
◆ 『あかんやつら/春日太一』
  『ミア・ファロー自伝:去りゆくものたち/ミア・ファロー(著)・ 渡辺葉(訳)』
副店長の春名は、今回の参加者さんが時代劇をお好きというお話もあったので、映画関連で2冊をご紹介。まずは、いま日本でいちばん時代劇に詳しい春日太一氏による『あかんやつら』から。
 本書では、東映京都撮影所の栄枯盛衰の中に登場する、まさに〈あかんやつら〉が活写されています。黎明期の東映を引っ張ったのがマキノ光雄で、彼は日本映画の父・牧野省三の次男です。マキノはお金のない中で会社を維持するため、とにかく大量の映画を作ることに専念します。スターを配して見せ場を作れば、ストーリーや整合性はなくても客は入る、との号令で粗製乱造されますが、いっときは繁栄するものの大衆は当然飽きていきます。そこに集団時代劇という、たくさんの俳優が出て画面を賑わせるような映画が登場し、お客さんがまた戻ってくる。やがてマキノ光雄は若くして亡くなり、代わってトップに立ったのが岡田茂。岡田はインテリ出のエリートなのに肝が座った人物として有名で、彼が考えたのが任侠路線。若山富三郎、鶴田浩二、高倉健などのスターが輩出され人気を博するのですが、やがて実際の暴力団同士の抗争を題材にとった〈実録もの〉と呼ばれるドキュメンタリータッチの作品群へとシフトしていきます。当時のプロデューサー、俊藤浩滋がそうした社会にめっぽう詳しく、つながりもあったため、東映の作る映画は他の会社と比べてリアルさが段違いだったといいます。
 面白いエピソードはいくつもあって、つねに金策に追われる東映はセットや小道具にお金をかけられず、拳銃を使う場合は警察に借りていました。だから東映の映画で拳銃の出てくるシーンはやたらリアルで、撃った後に硝煙が舞うところなど、他社では再現できません。
 また、若山富三郎と鶴田浩二は役に入り込むと現実との区別がつかなくなる癖がありました。ある映画で若山の率いるヤクザの組の子分が鶴田の組に寝返る展開があり、若山が本気で怒って子分役の俳優を殴ってしまいます。それに怒った鶴田は山口組に声をかけ、撮影所に本物のヤクザが乗り込む、といった、アホかいなという話もあります。こうした、今では考えられないような話がたくさん紹介されていて、とんでもなく面白い本です。
 もう一冊は、女優ミア・ファローの自伝。父親が映画監督のジョン・ファロー、母親が女優のモーリン・オサリヴァン、自宅はビバリーヒルズの豪邸という、絵に描いたような芸能一家に生まれた彼女。母親がビビアン・リーと同級生だったり、撮影所に遊びに行くとジョン・ウェインが抱き上げてくれたり、父親の仕事のためスペインに滞在中、ベティ・デイビス親子が遊びに来たりなど、ため息の出るエピソードには事欠きません。のちに結婚するフランク・シナトラから遊びに行こうと誘われるくだりが凄くて、「じゃあ明日、迎えの飛行機をよこすから」という現実離れぶりに、読んでいると笑うしかなくなります。その後、再度の結婚離婚のあとでウディ・アレンと付き合うことになり、ウディ・アレンはミア・ファローの養女と肉体関係を持つという鬼畜の行為に及ぶのですが、彼がそれ以外にもどれほど非人間的なおこないを繰り返してきたかが詳しく語られます。いっぽう、ミア・ファロー自身においても、やはり生い立ちや生活環境において、どうしても一般人とは隔絶しており、真っ当に生きているのにどこか考えや行動が浮世離れしています。
◆ 『ボクはやっと認知症のことがわかった/長谷川和夫』
最後に店長のあでりーから。「著者の長谷川和夫さんは認知症の権威で、認知症スケール(認知症かどうかを判断するテスト)を作ったことでも知られ、この人のおかげで老人福祉や認知症研究が世界の基準に近づいていったと私は思っています。この本を書かれたのが91歳の時で、88歳でご自身も認知症を発症されています。比較的病状の進行が遅く、発症後の講演では、『ぼく認知症になったんですよ』と公開するほどでした。本書では、自分が発症したからこそわかったことが書かれています。また、読売新聞編集委員の猪熊律子氏による補助的な解説が加えてあり、とても読みやすく仕上がっています。
 やはり患者本人でないとわからないことはたくさんあります。本書には患者の側から見た要望が書かれていて、それを知ると人間に優しい社会になると思います。認知症がどういう感じかというと、たとえば家の鍵をかけ忘れた時にもう一度家に戻って確認をし、それで安心するのが普通ですが、認知症の人は確認したこと自体を忘れてしまうので、また心配になったりします。また、発症したからといってすぐに何もわからなくなるわけではなく、症状は日によって異なります。疲れていると物を思い出しづらくなるのはみんな同じですが、認知症の人はそれが強く現れてしまったり。ですので、認知症になったからといって急に態度を変えないでほしいと著者はいいます。
 認知症の人は、何かを言いたくても言葉が出てこなかったり、うまく組み立てられなかったりしますが、それを周りの人が、『それは~のこと? それとも、こういうこと?』などと先回りしてしまうと、患者本人は考えることをやめてしまう。そうではなく、相手を信頼してじっと待つことが大切であり、待つことが優しさです。こうして相手のために待つ、時間を使うという優しさがあれば、みんなが幸せな世界になる気がします。
 そもそも人間には、生まれた時には〈快〉と〈不快〉という2つの感情しかないと言われています。認知症の方も、いいことはいいと感じ、嫌なことは嫌だと感じます。だから褒めてもらえると嬉しいし、けなされると嫌な気持ちになる。つまりは誰もが同じ人間なので、それを踏まえた上で接していくと、認知症になったとしてもその人の個性が生かされ、穏やかに過ごせると思います」
Tさん「批判とか要求はタブーですね」
あでりー「そうですね。また、仕事を取り上げることもタブーです。できることはやってもらう。たとえばタオルをたたむような簡単な作業でも、できる時とできない時があります。また、認知症の人が、家にいるのに『もう帰る』と言うことがありますが、これは居心地が悪いからだと私は思います。家って本当は居心地がよくてリラックスできる場所なのに、それができないからここは私の家じゃない、と思ってしまう。相手に寄り添い、理解しようと努めることが、心の充足感をお互いにもたらすのだと思います」
Nさん「どこにいてもそうですね」
あでりー「そうですね。たとえば親が認知症になったとしたら、親は絶対的な存在でもあるから、子の立場として親が認知症になったことを絶対に認めたくない部分があります。かつては自分で『これはやっちゃいけない』と言っていた本人がそれをやっている、それを子どもとして許せるか許せないかという問題があります。私にも高齢の親がいますから、そのあたりでうまく付き合っていけたらと思います。また、若くても発症する人はいますので、誰にでも起こり得ることだと思います。親もそうですし、自分や友達が発症したらどうだろうと考えるきっかけにもなります。いろんな意味で、読んでおくといい本だと思います。著者はこの本のあとにもう一冊、娘さんと一緒に書かれた本があって、次はそちらを読んでみたいですね」
Nさん「あでりーさんは、こういう本を読んでいるから、人に対する思いやりがあって、接し方がすごく愛情たっぷりなんですね。言葉の端々にもそれが感じられます」
あでりー「ありがとうございます」
Tさん「私も母親が認知症になった時に、職場の人から『親をもっと大事にしろ』などと言われたことがありました。こちらのことも知らずによくそんな残酷なことが言えるなと思いましたが、その時にやっぱり思いやりや人を理解してあげることの大事さをつくづく感じました」
春名「当事者じゃないとわからないことっていっぱいあります。その人の立場になることは難しいけど、大事なことですよね」
Tさん「思いやりは、常に持っていないとね」
あでりー「まさにこの著者も先輩医師から、病気というのは患者の立場になってみないとわからないよと言われてたんですが、『これで僕はわかったぞ』というようなことが本の中に書かれていました」
Nさん「その年になってみないとわからないことはいっぱいあるから、経験が大事だし、いろんなことを学んでいくことが大事ですね」
Tさん「やっぱり人と話をしないといけないですね。そうしないとわからないですから」
あでりー「できればいろんな年代の人と話さないと、今だと同じ職場の人や、核家族だから親子くらいしか対話がないので、学ぶ機会がありません。そういう経験を話してくれる方は貴重だと思います」
Tさん「このあいだ新聞で、15歳の女の子が『言葉の傲慢さ』というテーマで書いた文章が載っていました。こういう内容です。
〈私だって自省しなければならないし、相手のことを多角的に理解するように努め、発する言葉も吟味して、責任を持たなきゃ。なんてったって私は傲慢なのだから〉
 15歳でこんなことよく言えるなあと感心しました。私が15歳の頃にこんなことを思ったことはありませんでした」
春名「やはり本を読むのは大事なことだと思います。実生活で体験できることは限られているので、他の人の言葉で書かれたものを読むことで、できないことを疑似体験でき、少しでも他の人を想像できるようになると思います」
Nさん「間接的に経験することですものね」
Tさん「自分のことですらわかりませんから」
あでりー「確かに!」
【まとめ】
今回、紹介された本は1~2冊ずつと少なめでしたが、そのぶん、一冊ごとにじっくりと中身の説明ができ、それについて全員で深く語り合うこともできました。今回も本の内容のみならず、様々な話題で盛り上がり、よい時間を過ごすことができました。参加者の皆様、どうもありがとうございました!